石渕 聡「オンライン・ダンス・コミュニケーションがもたらす身体に対する意識」

ヴォイス・オブ・セッションハウス2020 石渕 聡

石渕 聡「オンライン・ダンス・コミュニケーションがもたらす身体に対する意識」

石渕 聡

 昨年3月以降、私の周りのダンスを教える立場の方達と、オンライン、特にzoomを使った授業やワークショップについて話をする機会が少なからずあった。私自身も大東文化大学の文学部教育学科で身体表現の授業を行なっている立場上、多くにもれずZoomによるオンラインの実技の授業を始めてから、早一年となる。また、大学の部活の顧問でもあるので、学生たちがダンス部の活動をZoomで行なっていることを今でも目の当たりにしている。

 

 このように書き始めると、あたかも、コロナ禍において「普段のようにダンスが行えないという悲劇」を述べるかのようであるが(もちろん、このパンデミックは全ての舞台関係者のみならず、あらゆる人間の営みにネガティブな影響をもたらしていることは全く否定されるべきではない)、ここでは、あえて、「オンラインのダンスが身体に関わるコミュニケーションに関してどんな状況をもたらしているか」を手短に述べてみたい。

 

 オンラインによる実技授業指導を進める中で、一つ言えることは、誰もが身体を普段よりも意識するということである。それはつまり、例えば病気になって、初めて健康を意識すると言うのと、同じカラクリである。ただ留意すべきは、対面し、話し合い、ふれあう主体としての身体は一つも失っていないのに、それをおこなうツールとしての身体を今回は失っている状況である。ツールも主体もコインの表と裏の関係だから、実体は同じなのにもかかわらず、、。その、ツールを全員が一度に失ったものだから、それまでの「身体がコミュニケーションで果たしている地的役割」が急に図となって顕在化してきている。まさに、今こそ、身体の価値が図に乗っている時なのだ。

 

 つまり、オンラインで行うダンスコミュニケーションは、身体イメージの補完が強く働く分、実は、対面で感じ損ねている身体的アスペクトが強調されて捕らえられているのではないか、ということである。ここが、対面的コミュニケーションともっとも違うのでないか。相手と物理的に同じ空間を共有することなんて、今までは空気のような「さして珍しくないことがら」でさえ、「掛け替えのない希求されている状況」となっているのだから。リアルの価値が高騰しすぎている状況である。これは一時的なもので、諸々が治れば、やがては消えてしまうものであろうが。(願わくは、身体に対する希求し求める精神が続いてくれれば、ダンス文化は、これまでよりもポピュラーになるので、消えないで欲しいが、そういうわけにもいかないであろう)。その意味では生活レベルでも、with コロナというのも、一過性のもので、「もう以前には戻れない」と言うのは、マスコミ的な社会の不安をいたずらに煽っているフレーズと捉えておくぐらいがよいのかもしれない。観客がマスクを外して舞台を見てくださる日は、必然的にかえってくるであろう。

 

 いつまでも我々は、文化の中から表情を奪い取られたままではいられないはずである。

 

大東文化大学準教授 石渕 聡(コンドルズ)
ヴォイス・オブ・セッションハウス2020より抜粋

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