ヴォイス・オブ・セッションハウス2020 新型コロナという災禍に向き合って
ここに1枚の写真がある。新型コロナウイルスが世界各地に拡散し始めた3月の末、新聞に載ったものである。遠くにエッフェル塔が見えるパリ市内の広場で、たった1人男性がジョギングしているだけのさほど変哲のない写真だ。だがそれを見た時、私はこれこそコロナが作り出した世界だとの想いに囚われ、寒々とした気持ちに襲われてしまった。病院などで不眠不休で重症患者の看病をする医療従事者の写真でもなく、広場に持ち込まれ土中に埋められていく数多くの棺桶の写真でもない。しかし、広場にたった一人の人間がいるだけの写真からは、「ソーシャル・ディスタンス」のかけ声の下に、私たちが一人ひとり分断された世界で立ちすくんでいることを思い知らされた気持ちになってしまったのである。
もう何年か前のことになるが、福島での原発事故の後、韓国の写真家・鄭周河氏が被災地を訪れて撮った写真の巡回展を、セッションハウスのギャラリーで開いたことがあった。その時の写真の多くは、爆発で崩れた発電所や津波の被害を受け破壊された町などの荒涼とした風景ではなく、どこにでも見られるような花が咲き鳥たちが飛び交う山野の美しい風景を撮ったものだった。しかし、その美しい風景は放射能に汚染されたものであり、ただの風景写真として見ることを拒否するものだった。「奪われた野にも春は来るか」と韓国の詩人・李相和が日本の植民地支配下で詠んだ詩の言葉をタイトルにした写真展であったが、まさしく花が咲き果物がなり小鳥が飛び交っていても、そこに「春が来ていると言えるのであろうか」と問いかける作品群であった。
コロナウイルスも放射能と同様に目には見えないものだ。それだけに日常のさりげない風景の中に浮遊するものとして、私たちを脅かしてやまないものである。近年加速化する地球温暖化に見られるように私たち人類による自然破壊によって、居所を失ったウイルスたちが人々の中に寄生地を求めて彷徨い出たのではないかという説がある。その論の当否は別としても、この新型コロナウイルスがこれまでの社会の在り様や人間の生き方を「これでいいのか?」と問いかけてきていることは否めないことだと思う。欲望にまみれた私たち人間へのしかかってくるハードな問いかけである。
そうした中で世界各地の科学者や哲学者、作家たちが、さまざまな考えを表明し始めている。中国の作家・閻連科氏は「厄災に向き合って」というエッセイの中で、作家はマスクになることも出来ないし、医療従事者の防護服にもなることは出来ないとして「文学の無力とやるせなさ」を感じながら、「文学に何が出来るのだろうか」と自らへの悲痛な問いかけをしている。同氏の想いには、社会のそこここに同調圧力のような空気が流れる中にあって、一人ひとりがやるべきことは怯えて心の中に綿入れをまとって縮こまってしまうことではなく、私たち一人ひとりが考え抜いた自分の言葉=「異なる音」を発し続けることであり、それぞれの表現方法で冷静に世界と向き合ってほしいとの願いがあるからであろう。作家たちも無力感に囚われながらも、人々が猛暑にも拘わらず胸の中に寒々として想い抱えている状況下で、心中にまとった綿入れを一枚分脱ぐ勇気を持つことが出来るかどうかに、文学のこれからがかかっているのだと言っているように思われる。この閻連科氏の「文学」を「ダンス」や「アート」へと入れ替えて考えた時、私たち同じような問いに直面することになるのではないのかと思う。コロナ禍の世界で生き抜いて、どのようなメッセージを発していこうとしてきたのか、していくのか、ダンスやアートの場でこの1年考えてきたこと、試みてきたことをレポートしてもらおう。
(記:セッションハウス企画室・伊藤孝)
鄭周河「奪われた野にも陽は来るか」