ヴォイス・オブ・セッションハウス2021 近藤良平
1997 年に「コンドルズ」を立ち上げて以来、今日までセッションハウスでも数多くの企画を担ってきた近藤良平さんは、2022 年の 4 月には彩の国さいたま芸術劇場場に就任しました。多忙になるにも関わらず当所のような小劇場の持つ可能性も大切していく考えには変わはないと語っています。
近藤良平『大きな劇場の役割・小さな劇場の役割』
この2年間で世の中の状況だけでなく自分をとりまく環境もずいぶんと変わりました。令和2年の4月より彩の国さいたま芸術劇場場の次期芸術監督に就任、この4月からは正式に就任します。いつの間にかに「劇場の人」になりました。へんな感じですが今後ともよろしくお願いします。
「劇場」について一つ二つ。
2000 年以降は継続的に公演を行う場所が増えまた、京都や博多、広島など各都市との交流は現在も行っています。でも知っている場所は、なんやかんやその町というより劇場と劇場の周辺、やはり劇場中心なのです。
海外公演も含めると記憶に収めきれないほど「劇場」に接してきました。歴史建造物のような場所から貴賓席があるようなところまで世界では様々です。引っ込む場所がなく舞台にあがったらずっと出続けなければならないところ、照明が暗すぎてどっちが正面かわからないところなど劇場のもっている味は色々です。その本番に至るまでも実は長い道のりがあります。作品を創る源は、からだの奥の方から滲みでて、ダンサーや出演者とともにリハーサル室であれやこれやと考えます。その上でついに「発表の場」となる空間が「舞台」であり光を放つスペース、そして劇場です。言わば「お弁当箱」です。小さな箱に詰め込むだけ詰め込む時もあれば、大きな箱でごろごろと転がす時もあります。色々な箱で演じてきても大切なことは「この場所で演じたい表現したい!」という気持ちが起きるかです。今はそう思います。セッションハウスの舞台を小スペースと捉えるか埼玉芸術劇場の大ホールを整備の整った万能の大舞台と捉えるかより、その場で発っしたい気持ちがあるかどうかが大切だと思います。
演じる人と観るひと
作品を創る側の主張は大切ですがどうやってお客さまに届けるのか、次につなげていくのかは、やっぱり責任を持ちたいですね。観る方はできるだけ束縛されない、限定されない気持ちでその客席にいたいと思い、小さなお知らせのようなダンスでも、過剰演技の中で繰り広げられるダンスであっても、受け入れようとする準備はあります。そして演目を演者が軽やかに表現しようとすれば軽やかに伝わり、重たげで難解な顔で進めていくと難解なものとして伝わります。その「伝わる」回路は常に繊細であります。観る側にとことん自由度がある「見世物小屋的」な見せ方は、より能動的に寄り添う気持ちが必要かもしれませんが、いつかやってみたいです。セッションハウスならそんな関係ができそうな気がします。
「ダンスブリッジ」「リンゴ企画」でのデュオ
今年度は「ダンスブリッジ」、「リンゴ企画」でデュエットを創作しました。ソロでなくデュエットという単位は相互関係をつくる最小人数です。ソロで踊りを発する場所は時々、気持ちの迷子に陥ります。そして目の前にささげるタイプのダンスと四方をお客さんが取り囲むタイプではソロ表現が異なります。
それにくらべデュエットの2人同士のやりとりは人間のハートフルな部分が全面 に出てきます。なので創っていて楽しいし、観る方も少し楽です。人間が一人では生きていけないんだ!とする証しみたいなものです。観る側(お客様)とも心が触れあう部分を含んだ表現が増えます。そんなことでデュエットとは、シンプルな人間模様の踊りだと思います。もちろんそれ以上の複数人数での表現もありなのですが、増える分ややこしく、中身も甘味になりがちです。そういえば「セッションハウス」の由来は「セッションをする場所」です。その意味でも相応しいものは、デュエットなのかもしれません。
20才代では、ただがむしゃらにダンス表現に向かうその姿勢こそが「若さ」であった気がします。無理があってもやるみたいな。今、若さの中にある人たちは、考えること、生きること、踊ることにもっとがむしゃらでやる、いや、そうあってほしいと強く思います。そんな「負けてられない!」気持ちでどこかへ我々を連れて行ってほしいです。捨ててしまう前に使いきるようなそんな感覚です。違う言い方で言うならば「出しおしみ」はもういらない。「今」をとことん大事にすることが今求められている気がします。自分にとっても心にぐっと捉えて真摯に受け止めたいと思います。
近藤良平
ヴォイス・オブ・セッションハウス2021より抜粋