平原慎太郎『振付家の気配・振付家の声』

ヴォイス・オブ・セッションハウス2021 平原慎太郎

2021 年は平原慎太郎さんにとっては、東京オリンピックの開会式でダンスの振付を担当するなど多忙を極めたが、セッションハウスでも「ダンスブリッジ」で 5 人の若手ダンサーにきめ細かな振付で一人一人の中から動きを引き出す見応えのある作品を見せてくれました。

平原慎太郎『振付家の気配・振付家の声』

平原慎太郎

平原慎太郎

平原慎太郎


ダンスブリッジ 2021平原慎太郎監修公演「Too Enough Medium」

振付家の気配

2021年は自分の人生の中で衝撃的な一年でした。その前年にあたる2020年の末からオリンピックの仕事を抱え、約8 ヶ月以上その真っ只中に身を置き、コロナウィルスの行政の対応にも右往左往に翻弄されつつ、2021年になった時も前年と変わらず幾つもの公演やイベントが相次いで中止や延期に。自身の生活環境も一変するなど強い波が自分に幾つも押し寄せ、年末に近づくにつれ延期された公演がラッシュのように訪れる。本当に目まぐるしい一年でした。セッションハウスとの付き合いはもうかれこれ15年近くになるかなと思いますが、その一年は足を運ぶ時間も減ってしまい、直子さん、孝さんともダンスの話も中々できないような状況が続いておりました。

 

ただ、2021年10月にセッションハウス主催でのダンスブリッジ企画が既に決定しておりました。そして、この忙しい状況を見越し、また2020年に起きたコロナウィルスの騒動などもひっくるめて、漠然と各種「メディア」のあり方と「ジャーナリズム」というものの立ち位置を比喩するような作品を作りたいと決めていました。普段、私の身の回りには TV もなく、ニュースはスマホで仕入れている身ですので、あまり世の中の流れがタイムリーに把握できているとはいえないのですが、それでも実生活でそれらの印象が変わったと強く思うようになっていた時期でしたし、そういった感触を作品にするのはアリだなと。身の回りにそういう情報媒体が「ない」私でさえ少々翻弄されているならそれが日常に「ある」方々にとっては大きな影響を持つものではないかと思ったからです。

 

 選んだ言葉はメディアからメディアムを選びました。メディアムは中間、仲介者の意味でその複数形がメディア。

 

 私は作品のテーマを通じて、作品を観ている方に当事者意識を芽吹かせたいという意識を持っております。気づかない方は気づかない。しかし、当事者意識が芽吹いた方には自分が名指しされているかのような感覚になるよう誘発する。身体で語るジャンルだからこそ、ピンポイントに呼びかけるような工夫をしながら作品作りを心がけている信条からです。

 

ダンサーの声

 さて、振付家は本番になると途端に舞台上から姿を消します。袖幕の外側へその気配だけを残してあとはダンサーに託すのが常です。ですので当然ですが、リハーサル時間で生まれた価値観を実際に皆さんの前で実行するのは他ならぬダンサー達とスタッフ達です。我々振付家は本番中祈って見守るのみの立場です。ですからダンサーが踊りを用いて表現してくれるのは私の言語ではありますが、その声を発する身体は彼らのものであり、それは彼らの精神が引き継ぎ発声しなくてはいけないものです。決して私の声が聞こえてきてはいけないと考えています。私の言語であった形跡は無くなってよくて、彼らの言語で彼らの声として聴こえる必要があるのです。

 

 今回の作品に例えていうなら、この作品で彼らに託したのは赤いカーテンの裏側でした。

 

 作品の構造として、まず一枚の赤いカーテンが舞台の奥にかかっている。そして、五人の出演者が居る内、二人がその内側を知っています。彼ら二人はそのカーテンの内側を見ることを三人に進め、それが成就し時間と共にその内二人までが見ますが、一人だけは断固として裏側を見ない、そして遂にはその場所の更に外側へと逃げてしまい、息が詰まっていくという物語でした。
今だからこういう風に的確に言語化できますが、稽古は常に進行形でアップデートされていくのでお互いが濃霧に包まれた状況から徐々に作品の輪郭を見つけ形として捉えていく必要があり、本当に五里霧中の山道を手を取り合って進んでいくような状況です。

 

 ダンサー達へは自分だったらこう踊るという説明をしますが、しかしその後でこれはあくまで手段の一つであるということを加え「正解」ではなく、「例」だと提示します。方法は幾つもあり、少なからず彼らの中に眠っている場合もある。もしかしたら、私の出した「例が」不正解な可能性もある。どの場合でもそれが内側で自己の動機と結びつくかどうか。その接続を今回の機会では彼らに課していきました。舞台上で発する声が彼らの叫びとなるように。

 

幕の裏の宇宙

 最近舞台を見に行き、クラスの講師をして、創作現場に身を置いて特に思うのがダンサーの声の音量が小さいことです。この公演の初演の回も残念ながらそうだったような記憶があります。ダンサーの声が聞こえない。技術はあるがそれ以上の声が聞こえず、まるで無声映画なのではなく、本来声入りで見るべき映画を無音で見ているような印象でした。しかし、決して認識を間違えていけないのはこの場合は彼らにも責任がある一方で、同時に私の伝え方や態度にも落ち度があると言う点だと思っています。

 

 この手のやりとりの難しさが創作ものの舞台の醍醐味の一つであり、しかもダンスカンパニーとして活動する我々でさえぶち当たる愛すべき壁なんです。私はこの課題が好きです。
ダンスブリッジでの公演後にこの作品は札幌で再演をしました。それまでに彼らは彼ら自身で作品を見つめ直し、その本番ではすっかり私の声は無く、ダンサー達の身体がダンサー達の精神から出た言葉を発し「声」が「叫び」になり、つまりは「振り」がようやく「踊り」となっていました。こうして振付家の頭の中で発生したいわゆる虚構(=虚でありイメージ)が実態(=実でありオブジェクト)となっていきます。

 

 この無から有を作る作業が観客の皆さんが劇場に足を踏み入れる数分前まで、せっせと行われております。その宇宙を私達は一緒にプカプカと遊泳しています。それはまるで今回の作品とシンクロしています。カーテン(=幕)の内側には隠された世界が広がっているものです。また次回セッションハウスで私達が作品をやるときは是非、目の前の幕の内側を覗きにいらっしゃってください。

平原慎太郎

ヴォイス・オブ・セッションハウス2021より抜粋

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