ヴォイス・オブ・セッションハウス2021 横尾咲子
メキシコで NPO 法人「手をつなぎメキシコと日本」を主宰し日本からダンサーやアーティストをメキシコに招いて幾多の交流企画を実現させてきた横尾咲子さんから便りが寄せられました。横尾さんは 2018 年にはマドモアゼル・シネマを呼んで下さった方で、この程、仏教僧侶になったとのこと。不思議だと感じるかも知れないことですが、「利他」の精神では NPO の活動と同じことだと語っています。
横尾咲子『メキシコからの声』
みなさんこんにちは。地球の反対側からこんにちは。
メキシコシティのビルの合間から覗く空は、たとえ大気汚染にまみれていても、間違いなくみなさんのいる場所とつながっていて、今こうして、神楽坂セッションハウスの地下スタジオへ想いを馳せています。
私事ですが、昨年末、僧侶になりました。踊る尼として一生精進していく所存です。京都のお寺で修行を終え、シャバに出たその夜、ある小劇場で、6つの舞踏作品に出会いました。その翌日は、奈良で大駱駝艦の舞踏スペクタクルを拝みました。さらにその翌日、神楽坂でマドモアゼル・シネマの『Tokyo ―そらの下で』をかぶりつき席で堪能しました。
僧侶になった途端、ここまでおどり漬けになれたことは、とても偶然とは思えません。正に仏縁であったのでしょう。親鸞聖人は「身を粉にしても、骨を砕いても、仏の恩に感謝して生きよ」と仰いましたが、ダンサーこそがそれを体現している!からだ一つで、命と向き合い、もがき、輝く、真の求道者だ!と、目から鱗がポロポロ落ちる想いでした。そして、自分がおどり好きな理由を改めて知ったのでした。
ところで「仏」とは。現代では仏は死人の代名詞、あるいは困ったときだけ信じてみる対象、というのが正直なところでしょうが、私は「自然の摂理」と捉えています。つまり、命はすべてつながりあって生かされているということ、命あるものは必ず死ぬこと、そして明けない夜はない、という真理です。この命さえ、他の命からいただき、支えてもらっているのに、「この命は私のもの」と思うから、固執しすぎたり、自殺したりするのだと思います。
有り難い命を、精一杯生ききる。ここに尽きるのです。あのおどり漬けの3日間、ダンサーたちは全身全霊でそのことを伝えてくれました。彼らの溢れる生命力が、私の全身の毛穴を通して五臓六腑に染み渡ってきました。
ところでなぜ私が僧侶になったかと言うと、メキシコシティにあるお寺文化センターの住職になるためです。2600年前のお釈迦様の教えである根本仏教を軸に、様々な文化活動を通して、違いを認め合い、楽しめ合えるような、平和共生精神を広めることが目的です。ですから、表現の場を提供し、人々の縁を結び育んでくださる、セッションハウスの伊藤孝さんと直子さんのような方々は、利他の精神に溢れた菩薩様として、お手本にさせていただきたいと思っております。
コロナ禍と改修工事により、お寺の対面活動を休止してからもう2年になります。この間は、仏教関連本の翻訳や、仏教説話のアニメーション制作などを進めており、その成果を少しずつ共有してきましたが、「今こそ聞きたい教え」とメキシコの人々から共感いただいております。お釈迦様の教えで最も大切なのは「慈悲」と言え、それは人間を人間たらしめる普遍的な心ですから、宗教も国境も時代も超えるのでしょう。10歳の時、祖母の死を目の当たりにして泣きじゃくっていた私に、和尚さんが「悲しいね。だから人には優しくしなきゃいけないんだよ」と仰ってくださったことを思い出します。そして、そんな理屈抜きの、言葉ではとても表しきれない、命の重みや、激しさや、温かさを、ダンスをみるときに、もう内臓で感じてしまうのです。マドモアゼルの皆さんに至っては、何もそこまでというくらい赤裸々で、むき出しで、でも慎ましやかで、愛らしくて、私の心の琴線はボロンボロンにかき乱されてしまうのです。
ですから、ダンスが不要不急なわけないのです。今こそ踊らねばならない、命を躍らせねばならない、と切に思うのです。さあ、おどりましょう!
横尾咲子
ヴォイス・オブ・セッションハウス2021より抜粋
横尾咲子とマドモアゼル・シネマの面々