笠井叡 リアリティの意味を問い続けて Voice of Kasai Family
笠井叡
2020年の1月頃から、或いはもっとそれ以前から生じていたというコロナ世界的大流行が始まってから、僕自身の中では、常に二つの方向に分裂させられるような生活が始まっていたと思う。別の言い方をするならば、自分の中において「リアリティ」という言葉の意味が分裂していた、ということであるかもしれない。コロナ流行が始まって以来、あらゆるメディアから送り届けられる統計学的数字や世論、また自分自身の中でもリアリティの持ちえない専門的に、一方的に与えられる科学知識や、「医療崩壊」という重い言葉で、その実態は自分の中でイマジネーションを通してリアリティを獲得するしかない様々な出来事に、ずっと晒され続けてきたと思う。だからそのような世界から逃れようと思うならば、そしてまた、そのような生き方を自分が真に望んでいるとするならば、自分も現在の生活すべてを投げうって、大流行が引き起こしている様々な現場にボランティアとして入り込み、自分が現在の医療現場で何ができるかを懸命に模索するしかないのかもしれ
ない。そしてそのことは自分にとって、これまでの自分を変える大きな意味がきっとあるに違いない、と想像することも十分にできる。今回のような世界的な規模の社会的カタストロフィが僕に突きつけていることとは、だから「自分」と言う一個の存在の「無力さ」である。
この無力さは「ウクライナ戦争」という歴史的なカタストロフィの中に置かれている自分自身についても同じである。「始まりも終わりもない無意味な世界戦争」「暴力性を全く克服することができないホモサピエンス」という明らかな事実を前にして、自分は全く無力なのである。一体何ということだろう!
もちろん、僕にとってこのコロナ大流行がリアリティのない統計学上の問題という意味ではない。事実、その事によって僕自身の生活は全く一変してしまった。ダンサーとしての自分にとって、観客とともに、「舞台に立つ」ということは、その活動の中で最重要のことであるには違いない。そして僕は二つの重要な舞台を断念せざるを得なかった。多くのダンサーたちが経験してきたように、僕自身、ご多分に漏れず、舞台作品を作るために何ヶ月も、何年もかけて行ってきたすべての事柄を、中断するか、或いは断念せざるを得なかったのである。そしてこのことが確かに、自分自身にとってコロナ大流行がもたらした、ポジティブな意味でも、ネガティブな意味で一番大きな「リアリティ」と呼べることであるかもしれない。創造に向けて準備してきた事柄が実現できないというのは、人生をひっくり返すくらいの大きな出来事である。具体的に言うならば2020年の春に行われた川口隆夫、笠井瑞丈ダンスによる『DUOの會』が公演半ばで中止になったこと。また2022年の秋、その再演『DUOの會』と、それに引き続き行われた新作公演『櫻の樹の下には』ーカルミナ・ブラーナを踊るーの舞台において僕自身は、コロナ陽性により、この二つの舞台の降板を余儀なくされたのである。一年間準備した公演のためのカテゴリーは舞台上に出演したダンサーたちにとっては別であるが、僕個人の中では実現しなかった。
しかし正直に言おう。皆とともに、舞台に立てなかったことは痛恨の極みではあるが、一方、「これが舞台をするというリアリティなのだ」と真に思えたことなのである。強がりで言うのでも何でもなく、僕は二つの舞台を現実に参加する以上に、参加していたように思えるのだ。そしてその思いはいまだに一つの「生きるエネルギー」として、力を持ち続けている。それは舞台に至るまでの様々なカテゴリー、準備、稽古、話し合いを、皆と共有してきたという事の方が、舞台そのものよりも重要であるということを、言おうしているのではない。自分でもよくわからないけれども、今も明らかに自分の中で生じているのは、「ダンスするという事の根源は一体何なのか」という、最も原初の地点に立たされているということである。その問は「生きるリアリティは一体何なのか」という問とぴったり重なっている。この問いはあの舞台が遠ざかるに従って、さらに強まってくる。そしてこのような心的状態は、もし現実に舞台を行っていたならば、生じなかったのかもしれない。
そのことで自分に納得できたことが、ひとつある。舞台を行うということの最重要な意味は「動機そのもの」の中にある、ということだ。今、現実の舞台上に実現しなかった二つの公演への「純粋な動機」はダンスすることの「心臓」であるように感じられる。そしてこの「動機」という「心臓」がカラダの中で打ち続けるかぎり、ダンスのリアリティは消滅しないだろう。
(2023年1月23日記)




