「トークの会 福島の声を聞こう!」の11年 Voice of Watanabe Ichie
渡辺一枝
東京電力福島第一発電所事故から12年が経とうとしている。あの当時、テレビニュースに釘付けになり、新聞を貪り読み、ネット情報を漁る毎日だった。テレビも新聞もネットも、さまざまを伝えてくれたけれど、私の知りたいことは、それらからは伝わってこなかった。避難指示が出されても避難せずに、あるいは避難できずに暮らす人たちもいるだろう。その人たちは何を思って、どんな暮らしをしているのか知りたかった。「福島に行きたい!」と思いながら、行くことが憚られていた。大変な状況下にあることはもちろん承知しているから、ただ「知りたいから行く」というのは身勝手が過ぎると思えていた。
たまたまその年の7月に岩手県の遠野に行く用事があり、用事を済ませてからボランティア組織の「遠野まごころネット」に登録をして岩手県の沿岸部の、瓦礫片付けに参加した。津波を被った家屋の家の中の片付けだった。被災地のために、私でもできることがあることを知った。それなら福島に行くのも、ボランティアとして行けば良いと思い至った。
そして8月、南相馬へ行った。それが初めての福島行だった。泊まった宿が現地の民間ボランティアグループの拠点で、その仲間に加わって仮設住宅に支援物資を配ったり、イベントを催したりしながら、仮設住宅で生活する人たちから話を聞いた。そうして見聞したことを他の人たちにも知って欲しくて、ブログで発信したり雑誌に寄稿していった。だが、私の言葉からではなく、現地の被災当事者が語る声を直接聴いて欲しいと思った。セッションハウスの伊藤孝さんに相談すると、即「やりましょう」と応えて下さり、震災から1年後の2012年3月に「渡辺一枝トークの会 福島の声を聞こう!」開催の運びとなった。
その第1回には、私が南相馬へ行くたびにお世話になっているビジネスホテル六角のオーナーで、現地ボランティアグループ「六角支援隊」隊長の大留隆雄さんと「希望の牧場」の吉沢正巳さんに話していただいた。私の体を通した言葉よりも当事者の声を通して当事者の言葉で語られる事実は、より現実味を帯びて参加者の体に染み入ったと思う。それからも大体3、4ヶ月に一度くらいの割合で不定期に続けてきて、この2月で43回目を迎えた。
11年間続けてこられたのも、セッションハウス・ギャラリーが場所を提供してくださったからだ。43回の内、2回はギャラリーではなく地下スタジオで催した。昨年亡くなった飯舘村の長谷川健一さんの講演と長谷川さんが自ら撮影した『飯舘村 わたしの記録』上映会、そしてもう1回は、南相馬から京都市綾部に避難している井上美和子さんの「ほんじもよう語り」だ。ギャラリーでのトークも、ゲストスピーカーは映像を使ったり写真を展示したりで、話の内容がより鮮明に伝わってきた。また昨年は、南相馬から大津市に避難した青田恵子さんが、布絵展を同時開催して話してくださった。
東日本大震災・東京電力福島第一発電所事故から、丸12年。卯年がまた巡ってきた。この間政府は、やれ常磐線が開通しただの、復興オリンピックだの、大熊町の復興拠点が避難指示解除になっただの、「復興」を声高に喧伝してきた。だが帰還困難区域は12年経っても地震で傾いたままの屋根がそのまま残る家屋、人が住まなくなった地域の家屋は野生動物に荒らされ、蔓草に覆われ、田畑はすっかり原生林のようになってしまった。そしてまた、「復興」と称した箱物や公園を造るために里山は切り崩され採掘・採土されて見るも無惨な有様となり、被災者は避難先から戻れぬまま浮草のような心地で過ごす人もいる。避難先から戻った人も以前のコミュニティは消えて、暮らしの再建ができない人も少なくない。
鉄道や道路の再開や開通、商業施設や学校、役場など箱物が新設されることを復興と言っているが、住民の心は置いてきぼりにされたままで復興などと言えるだろうか。
このような動きに抗して、脱・反原発運動に取り組む仲間たちが、各地で様々な活動を続けている。研究者や運動家を招いての講演会も催されている。私はこれからも被災当事者の生の声を聞く、この「トークの会 福島の声を聞こう!」を続けていこうと思う。



